+ + + + + + + + + +
〜8〜
「ただいま」
暗い玄関で誰に云うともなく呟いて、イルカは長い息をついた。自宅にたどり着いた途端、一日の疲れがどっと押し寄せてくる。
新入生の選抜を間近に控え、アカデミーの教師は皆、目の回るような忙しさに追われていた。勿論、イルカも例外ではなく、夜遅くまでアカデミーに詰め、帰宅するなり布団に倒れ込む毎日だった。
何を考える余裕もなく、寝て起きる。それを繰り返すうちにイルカは慣れた。
誰もいない部屋と時間に。
突然、ドアに預けた背中が総毛立った。
寝室から淡く漂う気配。
イルカの理性が否定するそれを、まるで求めるように躰は動く。足早に居間を通り抜け、奥のドアを開いて明かりを探る。
―――なんで。
ぼんやりと暗がりに浮かぶ、見慣れた面。
照明のスイッチに触れたまま、イルカは固まった。
暗部の装束をまとった男は、重さなどないもののように音もなくベッドから立ち上がり、イルカに歩み寄る。
「忘れ物を片付けにきた」
何を期待したわけでもないのに、ぶっきらぼうな男の言葉を耳にした途端、落胆する自分に気づかされた。
「そう、ですか」
イルカは形だけの相槌を返しながら、明かりを点ける。ぎこちなく強ばった指の爪先が金属板に当たり、かちりと微かな音を立てた。
存在するはずのない影から顔を背けて、抱えていた鞄を床に下ろし、ベストをハンガーに掛けた。機械的に日々の習慣をなぞるイルカの背へ、男の声が投げかけられる。
「アンタには世話になったから、ひとつだけ望みをきいてあげる。俺にできる範囲でね」
いったい何の酔狂か。
再び戯れに関わろうと云うのか、振り向きもせず打ち捨てていったものに。
「そんなの、いいですよ」
動揺を悟られないよう言葉少なに返せば、男は焦れたように云いつのった。
「三代目が、巻き込んだヒト全員に償えって云うのよ。全員っても、アンタだけなんだけど。ま、怪我をさせたしね」
そういうことかと。
イルカは振り返り、男を見た。暗部面を眼にした途端、突き上げてきた衝動を必死で堪える。
千々に乱れた思いは荒波に揉まれながら、渦巻く流れにに引き込まれてゆく。渦の底、男の元へと。
烈しすぎて、くるしい。
自分が泣きたいのか笑いたいのか、それさえもわからず、無言で立ち尽くすイルカに向かって、男はまるで無造作に痛みを誘う。
「云って。欲しいものは? 要らないものがあれば消してあげるよ。人間でも物でも、記憶でも」
なんと男に似つかわしく、傲慢な誘惑であることか。
「記憶……」
―――忘れられるものなら。
月の冴えた夜に、この男に出会いさえしなければ、あんなに苦しい日々を過ごさずにいられた。
最初から、何も知らずに。
貌も名も明かさず去って行く男を、慕わずにすむように。
「何が欲しいの」
望みなら、ひとつだけ。
「名前を」
「俺にできること、って云ったでしょ」
イルカは頭を振った。
素性など今更だ。どこの誰とも知らずに抱かれ、憎んだのだから。
名もなき狗を望みはしない。
獣同士が咬み合った、浅ましい傷痕も要らない。
「ちがッ。違う、俺の」
息苦しさに途切れる声がもどかしく、イルカは握る拳に力をこめた。
どうせ、最後なのだから。もう二度と、言葉を交わすことも叶わないだろうから。
せめて、人のように。
「名前を呼んで、ください」
偽りでも構わない。
一度だけ、人である振りをして、人のように呼んで欲しい。
男は微動だにせず、イルカを見つめていた。
長い沈黙の末、ゆっくりと男の腕が差し出される。
「イルカ」
初めて耳にする優しい声音に、躰が震えた。
「イルカ、おいで」
心臓の鼓動が跳ね上がり、狂ったように走りだす。
差し伸べられた両腕に縋りたいのに、四肢の力が抜けて動けない。
「……ッ」
ようやく踏み出した足がもつれ、男の胸に倒れ込んだ。
骨が軋むほどきつく抱き締めてくる、逞しい両の腕が震えているように感じられるのは、気の所為か。
硬い胸から伝わる鼓動が、どちらのものとも分からないほど速いのは。
「―――……」
呼びかける名を持たず、ただ見上げるイルカに囁きかける。
「それだけでいいの」
戌の面。
咬み裂かれた痛みは忘れはしない。この身に残るどんな傷痕よりも深い傷を負わせた獣を、覚えていたいと願う。
「ねえ、抱かせて」
答えられずに頷けば、男の手がイルカの額当てを引き下ろし両眼を覆った。
ふわりと巻き込まれるようにベッドに落とされ、のしかかる重みと体温に、安堵すら感じる。
視界を遮る額当てに触れようとした、イルカの右手が引き戻される。
大きな手に頤を掴まれ、
「イルカ……」
名を呼ぶ吐息が頬を掠めた。
「……ぁ…」
繰り返し唇に落とされる、柔らかく甘い感触。
信じられなくて、恐ろしいような気すらして、躰が強ばる。
ひんやりとした掌が、イルカの肌をたどり身の内に熱を灯してゆく。そっと何度も、合わせた肌が同じ熱を孕むほどに。
触れ合った舌先を絡め、深く口づけを交わしながら、イルカは両腕を男の背にまわした。
腕の中に抱えたのは、胸の奥底に巣くう物狂おしい痛みそのものだ。
忌みながら逃れられないそれに縋って。
このまま融けてしまえと思う。
夢を見ていたような気がした。
目覚めとともに消え失せた、いつ何処とも知れぬ蜃気楼は、イルカの心に鮮烈な印象だけを残していった。
両目だけを覆われたまま、すっかり曝け出している皮膚に、早朝の空気と穏やかな気配を感じる。
イルカが上半身を起こし額当てに手を延ばすと、手首に男の長い指が絡み、強い力で引き剥がされた。
「このまま。狗のコトは忘れて」
優しい声で、勝手なことを云う。
最後まで勝手なことしか云わない。
人の気持ちを蔑ろにして、誰に許すこともなかった胸の内深くにまで居座っておきながら、戻る気もなく出て行く男など、野垂れ死ねばいいと思う。
「無理に決まってる」
イルカがやっとの思いで絞り出した声は、低く掠れていた。
「いなくなれば、そのうち忘れるよ」
自分に向けられた穏やかな声音が悲しくて、やりきれない。
本当に、いなくなる。
男は暗部の日常に戻り、生死の際に挑むような斗いを繰り返しながら、いずれどこかで本当に野垂れ死に、睦み合ったその身の残骸すら残さず地に還るのだろう。
一介の中忍には暗部の行方など知る術もなく、知らずに失う不安に怯えながら、記憶を手繰り続けるしかないのだ。
そう思えば、秘めていた恨み言が口をつく。
「無理だ。無責任だろ、それは」
軽やかに男が笑う。
「ごめんね。じゃあ、俺もアンタを忘れないから。死ぬときまで覚えてるから、許して」
今になってそんなことを云うのは卑怯だと、イルカは男の身勝手を詰りながら、不覚にも滲む涙を隠し俯いた。
「ヒトの時に逢ってたら、泣かせたりしなかったのに」
どこまでも卑怯な男。
別れの言葉すら痛みを伴って、惨く胸を抉る。
かすかに震えるイルカの頬を、そっと男の右手が撫でた。耳朶に触れる指先の、鋭い鉤爪。武装に覆われてしまった掌からは、もう温もりが伝わらない。
迎えが来たから、と唇に触れゆく吐息が伝えた。
遠く小鳥のさえずる、いつもと変わらぬ朝。
窓の外には、ささやかな気配も異変も感じられず、それはイルカの絶望を深める事実でしかなかった。
男が生きる場所は、あまりにも遠い。
「さよなら、イルカ」
不意に感情の窺えなくなった声音に、同じ言葉を返して、イルカはゆっくりと額当てを外した。
開け放された窓から、風が吹き込む。
ひとりきりの部屋に。
愛でなく、恋でなく。
何ひとつ与えず分かつことなく、互いの熱だけを求めた日々は、だから、辛い記憶ばかりを残すとわかっていたのに。
それでも、欲しかった。
身も心も。
ただ、衝動だけが強く深くあって。
ふと閉じた瞼に、忘れていた夢の情景が浮かび上がり、イルカは唇を噛み締める。
刃のように冴えわたる月光の下を、獣が疾走する。
猛々しい牙を剥き、風を切るが如くに月下の荒れ野を駆け抜ける、白銀の、狗。
その鮮やかな幻に心奪われ、この先も囚われ続けるのだろうという予感がした。
昇る陽は変わることなく、だが、この身が朽ちるまで、痛みを刻まれた昏い魂に陽光の射すことはないと思える。
ならば、奪われたまま獣に添おう。
ただ、思いだけを寄り添わせ、永劫の夜を徃く。
―――さよなら。
イルカは抱えた膝に額を預け、こみあげる嗚咽を噛んだ。
訪れる筈のない朝の光が眩しく。
[了]
2002/09/17〜2004/11/03
「ただいま」
暗い玄関で誰に云うともなく呟いて、イルカは長い息をついた。自宅にたどり着いた途端、一日の疲れがどっと押し寄せてくる。
新入生の選抜を間近に控え、アカデミーの教師は皆、目の回るような忙しさに追われていた。勿論、イルカも例外ではなく、夜遅くまでアカデミーに詰め、帰宅するなり布団に倒れ込む毎日だった。
何を考える余裕もなく、寝て起きる。それを繰り返すうちにイルカは慣れた。
誰もいない部屋と時間に。
突然、ドアに預けた背中が総毛立った。
寝室から淡く漂う気配。
イルカの理性が否定するそれを、まるで求めるように躰は動く。足早に居間を通り抜け、奥のドアを開いて明かりを探る。
―――なんで。
ぼんやりと暗がりに浮かぶ、見慣れた面。
照明のスイッチに触れたまま、イルカは固まった。
暗部の装束をまとった男は、重さなどないもののように音もなくベッドから立ち上がり、イルカに歩み寄る。
「忘れ物を片付けにきた」
何を期待したわけでもないのに、ぶっきらぼうな男の言葉を耳にした途端、落胆する自分に気づかされた。
「そう、ですか」
イルカは形だけの相槌を返しながら、明かりを点ける。ぎこちなく強ばった指の爪先が金属板に当たり、かちりと微かな音を立てた。
存在するはずのない影から顔を背けて、抱えていた鞄を床に下ろし、ベストをハンガーに掛けた。機械的に日々の習慣をなぞるイルカの背へ、男の声が投げかけられる。
「アンタには世話になったから、ひとつだけ望みをきいてあげる。俺にできる範囲でね」
いったい何の酔狂か。
再び戯れに関わろうと云うのか、振り向きもせず打ち捨てていったものに。
「そんなの、いいですよ」
動揺を悟られないよう言葉少なに返せば、男は焦れたように云いつのった。
「三代目が、巻き込んだヒト全員に償えって云うのよ。全員っても、アンタだけなんだけど。ま、怪我をさせたしね」
そういうことかと。
イルカは振り返り、男を見た。暗部面を眼にした途端、突き上げてきた衝動を必死で堪える。
千々に乱れた思いは荒波に揉まれながら、渦巻く流れにに引き込まれてゆく。渦の底、男の元へと。
烈しすぎて、くるしい。
自分が泣きたいのか笑いたいのか、それさえもわからず、無言で立ち尽くすイルカに向かって、男はまるで無造作に痛みを誘う。
「云って。欲しいものは? 要らないものがあれば消してあげるよ。人間でも物でも、記憶でも」
なんと男に似つかわしく、傲慢な誘惑であることか。
「記憶……」
―――忘れられるものなら。
月の冴えた夜に、この男に出会いさえしなければ、あんなに苦しい日々を過ごさずにいられた。
最初から、何も知らずに。
貌も名も明かさず去って行く男を、慕わずにすむように。
「何が欲しいの」
望みなら、ひとつだけ。
「名前を」
「俺にできること、って云ったでしょ」
イルカは頭を振った。
素性など今更だ。どこの誰とも知らずに抱かれ、憎んだのだから。
名もなき狗を望みはしない。
獣同士が咬み合った、浅ましい傷痕も要らない。
「ちがッ。違う、俺の」
息苦しさに途切れる声がもどかしく、イルカは握る拳に力をこめた。
どうせ、最後なのだから。もう二度と、言葉を交わすことも叶わないだろうから。
せめて、人のように。
「名前を呼んで、ください」
偽りでも構わない。
一度だけ、人である振りをして、人のように呼んで欲しい。
男は微動だにせず、イルカを見つめていた。
長い沈黙の末、ゆっくりと男の腕が差し出される。
「イルカ」
初めて耳にする優しい声音に、躰が震えた。
「イルカ、おいで」
心臓の鼓動が跳ね上がり、狂ったように走りだす。
差し伸べられた両腕に縋りたいのに、四肢の力が抜けて動けない。
「……ッ」
ようやく踏み出した足がもつれ、男の胸に倒れ込んだ。
骨が軋むほどきつく抱き締めてくる、逞しい両の腕が震えているように感じられるのは、気の所為か。
硬い胸から伝わる鼓動が、どちらのものとも分からないほど速いのは。
「―――……」
呼びかける名を持たず、ただ見上げるイルカに囁きかける。
「それだけでいいの」
戌の面。
咬み裂かれた痛みは忘れはしない。この身に残るどんな傷痕よりも深い傷を負わせた獣を、覚えていたいと願う。
「ねえ、抱かせて」
答えられずに頷けば、男の手がイルカの額当てを引き下ろし両眼を覆った。
ふわりと巻き込まれるようにベッドに落とされ、のしかかる重みと体温に、安堵すら感じる。
視界を遮る額当てに触れようとした、イルカの右手が引き戻される。
大きな手に頤を掴まれ、
「イルカ……」
名を呼ぶ吐息が頬を掠めた。
「……ぁ…」
繰り返し唇に落とされる、柔らかく甘い感触。
信じられなくて、恐ろしいような気すらして、躰が強ばる。
ひんやりとした掌が、イルカの肌をたどり身の内に熱を灯してゆく。そっと何度も、合わせた肌が同じ熱を孕むほどに。
触れ合った舌先を絡め、深く口づけを交わしながら、イルカは両腕を男の背にまわした。
腕の中に抱えたのは、胸の奥底に巣くう物狂おしい痛みそのものだ。
忌みながら逃れられないそれに縋って。
このまま融けてしまえと思う。
夢を見ていたような気がした。
目覚めとともに消え失せた、いつ何処とも知れぬ蜃気楼は、イルカの心に鮮烈な印象だけを残していった。
両目だけを覆われたまま、すっかり曝け出している皮膚に、早朝の空気と穏やかな気配を感じる。
イルカが上半身を起こし額当てに手を延ばすと、手首に男の長い指が絡み、強い力で引き剥がされた。
「このまま。狗のコトは忘れて」
優しい声で、勝手なことを云う。
最後まで勝手なことしか云わない。
人の気持ちを蔑ろにして、誰に許すこともなかった胸の内深くにまで居座っておきながら、戻る気もなく出て行く男など、野垂れ死ねばいいと思う。
「無理に決まってる」
イルカがやっとの思いで絞り出した声は、低く掠れていた。
「いなくなれば、そのうち忘れるよ」
自分に向けられた穏やかな声音が悲しくて、やりきれない。
本当に、いなくなる。
男は暗部の日常に戻り、生死の際に挑むような斗いを繰り返しながら、いずれどこかで本当に野垂れ死に、睦み合ったその身の残骸すら残さず地に還るのだろう。
一介の中忍には暗部の行方など知る術もなく、知らずに失う不安に怯えながら、記憶を手繰り続けるしかないのだ。
そう思えば、秘めていた恨み言が口をつく。
「無理だ。無責任だろ、それは」
軽やかに男が笑う。
「ごめんね。じゃあ、俺もアンタを忘れないから。死ぬときまで覚えてるから、許して」
今になってそんなことを云うのは卑怯だと、イルカは男の身勝手を詰りながら、不覚にも滲む涙を隠し俯いた。
「ヒトの時に逢ってたら、泣かせたりしなかったのに」
どこまでも卑怯な男。
別れの言葉すら痛みを伴って、惨く胸を抉る。
かすかに震えるイルカの頬を、そっと男の右手が撫でた。耳朶に触れる指先の、鋭い鉤爪。武装に覆われてしまった掌からは、もう温もりが伝わらない。
迎えが来たから、と唇に触れゆく吐息が伝えた。
遠く小鳥のさえずる、いつもと変わらぬ朝。
窓の外には、ささやかな気配も異変も感じられず、それはイルカの絶望を深める事実でしかなかった。
男が生きる場所は、あまりにも遠い。
「さよなら、イルカ」
不意に感情の窺えなくなった声音に、同じ言葉を返して、イルカはゆっくりと額当てを外した。
開け放された窓から、風が吹き込む。
ひとりきりの部屋に。
愛でなく、恋でなく。
何ひとつ与えず分かつことなく、互いの熱だけを求めた日々は、だから、辛い記憶ばかりを残すとわかっていたのに。
それでも、欲しかった。
身も心も。
ただ、衝動だけが強く深くあって。
ふと閉じた瞼に、忘れていた夢の情景が浮かび上がり、イルカは唇を噛み締める。
刃のように冴えわたる月光の下を、獣が疾走する。
猛々しい牙を剥き、風を切るが如くに月下の荒れ野を駆け抜ける、白銀の、狗。
その鮮やかな幻に心奪われ、この先も囚われ続けるのだろうという予感がした。
昇る陽は変わることなく、だが、この身が朽ちるまで、痛みを刻まれた昏い魂に陽光の射すことはないと思える。
ならば、奪われたまま獣に添おう。
ただ、思いだけを寄り添わせ、永劫の夜を徃く。
―――さよなら。
イルカは抱えた膝に額を預け、こみあげる嗚咽を噛んだ。
訪れる筈のない朝の光が眩しく。
[了]
2002/09/17〜2004/11/03
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