+ + + + + + + + + +
「イルカ、です」
濡れた上着を腰に巻きつけ、カカシの横に座った少年の声は上ずっていたが、明瞭に響いた。
「イルカね。オレは名乗らないよ?」
カカシが指先で面を弾くと、イルカは頷き、ものいいたげにカカシを見た。わずかに小首を傾げた表情は、最初に育てた仔犬によく似ていて、カカシはあやうく頭を撫でるのを思い止どまった。
「あー、別に何かあるワケじゃないから。オレが昼寝してたらアンタが来て、それで目が覚めただけ」
「あの、俺っ、暗部の方がいらっしゃったなんて、ぜんぜん気がつかなくって、すみません!」
一息にまくし立て、イルカはぺこりと頭を下げた。
それが、予想だにせぬほど初々しい仕草だったので、カカシはすっかり毒気を抜かれてしまった。暇つぶしに揶揄ってやろうという気も失せ、何故だかイルカに、少しばかりの好感すら抱いたのだ。
「いいよ。それはそうと、何で泥なんかかぶったの?」
カカシは内心、自分が口にした言葉に驚いていた。初対面同然である各下の忍に構う酔狂を、何処で拾ってきたものか。「いいえ……その、かぶったんじゃなくて………」
耳まで赤く染めたイルカが語ったのは、そう珍しくもない任務における無様な失敗談だったが、意外なことに、それはBランクに相当する引き受け仕事であり、イルカが中忍であると知れた。
火影様に叱られそうだ、と、しょんぼり肩を落とすイルカはちいさな子供のようで、それが妙におかしかった。
喉の奥で笑いながら、俯いているイルカの貌を覗き込むと、気の強そうな双眸がカカシを見返した。
「笑いごとじゃありません」
「ま、大丈夫でしょ。あのヒト、今は孫が生まれて幸せ一杯だからね」
「そうですね……」
一瞬、イルカは笑顔をつくろうとした。
それから、にっこりと笑って、無邪気に火影のことを語り出した。
カカシの心を捉えたのは、火影を真剣に誉め称える言葉ではなく、イルカ自身、まったく気づいていないだろう、刹那の寂しげな表情だった。
―――あんな因業爺の、どこがいいんだか。
イルカの話す三代目火影は、カカシの知る誰よりも優しく、慈愛に満ちた頼もしい人物と感じられた。
三代目はイルカを可愛がっていたに違いない。親のないイルカに他の子供達と等しく愛情を与え、ことによると特に目をかけていたのかも知れない。
自分の孫のように。
実のところ、火影が本当の孫と、血の繋がりのない者とを別け隔てするような人物でないことは、イルカにも分かっているはずで、だからこそ、あけすけな好意を口にできるのだろう。
しかし、孤独な子供は与えられる愛情すら不安を抱く。
やっと中忍になれたから恩返しがしたい、と云うイルカの照れくさそうな貌の後ろに、膝を抱えた幼子が見えるような気がした。
似たりよったりの身の上であるから、イルカが独りであるというのは匂いで分かる。
けれども、分別のつく前から忍として扱われていたカカシには、否応無く独り立ちしなければならない少年の胸を痛める寂寥が分からない。それだけではなく、イルカの言動の端々に表れる少年らしい感情の多くにも、実感が伴わなかった。
ただ、それらイルカの持てる思いが、何となく羨ましいような気がし、また哀れにも感じられた。
そんなにも大切なものを抱き締めていたら、失った時に辛い思いをするだろうと、それだけはカカシも、苦い体験をもって知っていたのだ。
「もう行かないと。俺、まだ報告してないんです」
慌てて立ち上がったイルカに、ひとつだけ訊いた。
「アンタ、寂しいの?」
イルカはひどく驚いた貌をして、首を横に振った。
―――馬鹿だなあ。
素早く身繕いをし、駆けて行く姿を見送りながらカカシは、三代目にすら甘えられない不器用で意地っ張りな少年を、わずかばかりの優しい記憶の中へ、そっとしまい込んだ。
金臭い戦場の夢見ぬ夜に、この面影はきっと温かい。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ふわりと漂う花の香に、カカシは唇を引き結んだ。
石段を登り詰めた先には、桜の樹に取り囲まれた狭い境内があり、その中心には祠と、ひときわ大きな桜の古木があった。
数百年の年月を重ね、十三年前の災厄を経てなお、春には芽を吹くこの樹を、土地の者は畏敬を込めて稲荷桜と呼ぶ。
何が地の理を狂わせたのか、木ノ葉の里が生まれる以前から不変であった神木までが、秋に花を咲かせている。
イルカは、その稲荷桜の下にいた。
辺りに咲き乱れる桜は艶やかで、だが、それは枯れ色に染まった現世からイルカを隔てる桜の檻と、カカシには見えた。
「カカシ先生……」
わざと足音を立てて近づくと、イルカは振り向き、きまりの悪そうな顔をした。
「置いてきぼりはひどいですよ、イルカ先生」
「すみません、つい……」
「怒ってません」
しおらしく項垂れるイルカを見るのが、せつない。
もとより責めるつもりはなかったが、イルカがここにいる理由を思うと、言い訳も語られないことが恨めしくも思えた。 三代目の好きな稲荷桜。
九尾の爪牙を免れた里人が、鎮魂と平穏を願って祀った祠。礎に刻まれた多くの人名の中には、イルカの肉親の名もある筈だ。
イルカは祈っていたのだろう。
折れた主柱と、支えをなくした里の行く末を。
一度たりとも違えたことのない、カカシとの約束を忘れるほど、失うことに怯えて。
〈続〉
2002/06/28〜2002/07/18
2003/11/13改稿・改題
濡れた上着を腰に巻きつけ、カカシの横に座った少年の声は上ずっていたが、明瞭に響いた。
「イルカね。オレは名乗らないよ?」
カカシが指先で面を弾くと、イルカは頷き、ものいいたげにカカシを見た。わずかに小首を傾げた表情は、最初に育てた仔犬によく似ていて、カカシはあやうく頭を撫でるのを思い止どまった。
「あー、別に何かあるワケじゃないから。オレが昼寝してたらアンタが来て、それで目が覚めただけ」
「あの、俺っ、暗部の方がいらっしゃったなんて、ぜんぜん気がつかなくって、すみません!」
一息にまくし立て、イルカはぺこりと頭を下げた。
それが、予想だにせぬほど初々しい仕草だったので、カカシはすっかり毒気を抜かれてしまった。暇つぶしに揶揄ってやろうという気も失せ、何故だかイルカに、少しばかりの好感すら抱いたのだ。
「いいよ。それはそうと、何で泥なんかかぶったの?」
カカシは内心、自分が口にした言葉に驚いていた。初対面同然である各下の忍に構う酔狂を、何処で拾ってきたものか。「いいえ……その、かぶったんじゃなくて………」
耳まで赤く染めたイルカが語ったのは、そう珍しくもない任務における無様な失敗談だったが、意外なことに、それはBランクに相当する引き受け仕事であり、イルカが中忍であると知れた。
火影様に叱られそうだ、と、しょんぼり肩を落とすイルカはちいさな子供のようで、それが妙におかしかった。
喉の奥で笑いながら、俯いているイルカの貌を覗き込むと、気の強そうな双眸がカカシを見返した。
「笑いごとじゃありません」
「ま、大丈夫でしょ。あのヒト、今は孫が生まれて幸せ一杯だからね」
「そうですね……」
一瞬、イルカは笑顔をつくろうとした。
それから、にっこりと笑って、無邪気に火影のことを語り出した。
カカシの心を捉えたのは、火影を真剣に誉め称える言葉ではなく、イルカ自身、まったく気づいていないだろう、刹那の寂しげな表情だった。
―――あんな因業爺の、どこがいいんだか。
イルカの話す三代目火影は、カカシの知る誰よりも優しく、慈愛に満ちた頼もしい人物と感じられた。
三代目はイルカを可愛がっていたに違いない。親のないイルカに他の子供達と等しく愛情を与え、ことによると特に目をかけていたのかも知れない。
自分の孫のように。
実のところ、火影が本当の孫と、血の繋がりのない者とを別け隔てするような人物でないことは、イルカにも分かっているはずで、だからこそ、あけすけな好意を口にできるのだろう。
しかし、孤独な子供は与えられる愛情すら不安を抱く。
やっと中忍になれたから恩返しがしたい、と云うイルカの照れくさそうな貌の後ろに、膝を抱えた幼子が見えるような気がした。
似たりよったりの身の上であるから、イルカが独りであるというのは匂いで分かる。
けれども、分別のつく前から忍として扱われていたカカシには、否応無く独り立ちしなければならない少年の胸を痛める寂寥が分からない。それだけではなく、イルカの言動の端々に表れる少年らしい感情の多くにも、実感が伴わなかった。
ただ、それらイルカの持てる思いが、何となく羨ましいような気がし、また哀れにも感じられた。
そんなにも大切なものを抱き締めていたら、失った時に辛い思いをするだろうと、それだけはカカシも、苦い体験をもって知っていたのだ。
「もう行かないと。俺、まだ報告してないんです」
慌てて立ち上がったイルカに、ひとつだけ訊いた。
「アンタ、寂しいの?」
イルカはひどく驚いた貌をして、首を横に振った。
―――馬鹿だなあ。
素早く身繕いをし、駆けて行く姿を見送りながらカカシは、三代目にすら甘えられない不器用で意地っ張りな少年を、わずかばかりの優しい記憶の中へ、そっとしまい込んだ。
金臭い戦場の夢見ぬ夜に、この面影はきっと温かい。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ふわりと漂う花の香に、カカシは唇を引き結んだ。
石段を登り詰めた先には、桜の樹に取り囲まれた狭い境内があり、その中心には祠と、ひときわ大きな桜の古木があった。
数百年の年月を重ね、十三年前の災厄を経てなお、春には芽を吹くこの樹を、土地の者は畏敬を込めて稲荷桜と呼ぶ。
何が地の理を狂わせたのか、木ノ葉の里が生まれる以前から不変であった神木までが、秋に花を咲かせている。
イルカは、その稲荷桜の下にいた。
辺りに咲き乱れる桜は艶やかで、だが、それは枯れ色に染まった現世からイルカを隔てる桜の檻と、カカシには見えた。
「カカシ先生……」
わざと足音を立てて近づくと、イルカは振り向き、きまりの悪そうな顔をした。
「置いてきぼりはひどいですよ、イルカ先生」
「すみません、つい……」
「怒ってません」
しおらしく項垂れるイルカを見るのが、せつない。
もとより責めるつもりはなかったが、イルカがここにいる理由を思うと、言い訳も語られないことが恨めしくも思えた。 三代目の好きな稲荷桜。
九尾の爪牙を免れた里人が、鎮魂と平穏を願って祀った祠。礎に刻まれた多くの人名の中には、イルカの肉親の名もある筈だ。
イルカは祈っていたのだろう。
折れた主柱と、支えをなくした里の行く末を。
一度たりとも違えたことのない、カカシとの約束を忘れるほど、失うことに怯えて。
〈続〉
2002/06/28〜2002/07/18
2003/11/13改稿・改題
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