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大壁を越えて北西に真っすぐ、靄に白く覆われた家々の屋根を飛び伝った。
任務外では禁じられていることだが、人気のない夜明け時、夜駆けの後でひどく凍えているから早道をする。人通りがあったとしても、寒冷地仕様のコートと白い面は靄に紛れて、目につくことはないだろう。
はやく報告を済ませて。
温かい湯に頭の先まで浸かり、生臭い汚れを洗い流して。
刀にこびりついた血脂を落とすのは、それからでいい。忍具の手入れをしているうちに、疲労で昂ぶった気も落ち着くはずだから。
そうして全部片付いたら、布団に潜り込む。いつものように浅く薄暗い眠りは、けれど、夢を見るまでは安らかだろう。
夢。
過ぎ去った日々の記憶と、昏く生々しい未来の幻。夜毎に巻き戻される歪んだ時間は、剥き出しの爪先に染む冷気より寒々しい。
そんなものに囚われ壊れるほど上等にはできていなかったが、何か、柔らかいところが次第に固く強ばって、凍りついてゆくように思える。
何も失ってはいない。仲間の命の他には惜しむものなど残されなかった。
命のやりとりをする場で失うものは意外と少ない。ただ、拭い去れない汚れや傷が増えてゆくだけで。
最近では、その痛みさえも鈍く遠く。
いつか、何も感じられなくなるまで凍てついてしまったら、自分はどうなるのだろうかと、他人事のように考える。
やはり些細な衝撃で砕けてしまうのだろうか。
それは、ない。
残念ながら、そんなに幸せな末路を辿れるような生き方はしてこなかった。壊れて忍ではなくなった人々の面影を追いながら、それを羨ましいと思う程度にはひとでなしの、命根性が汚い性分だ。
そんなふうに今も在ることの贖罪のつもりだろうか、躰は反射的に仲間を庇う。失敗するたび傷が増えてゆく。癒えないまま痛みごと凍りつき、夢の連鎖に嵌まりこむ。
「―――あぁ……」
知らず零れた溜め息は嬉しげで、己が嗤っていることに気づいた。
もしも、永の安息が得られるとしたら。
それは胸につかえる氷塊がすべて溶けてしまったときだ。
戒め堪えているよりも後悔するほうが苦しいから、それを許されたなら、きっと自分は耐えられない。
救われた生命の代償も、与えらる使命も責任も、二つ名の誉れさえも膨れ上がって、ひとりで担うには重くなり過ぎたから、後悔に打ちのめされた柔らかい人の心では支えきれないだろう。
ゆめ。
赫い月夜に奪われた夢の代わりに、ささやかな希望を。
いつか、人に戻る日まで。
目抜き通りにほど近く、建物の密集した地帯に至って、チャクラをひそめる。
この辺りには下位の忍も多く棲んでいるから、気配を探られるのは煩わしいし、普通、同業者に頭上を飛び越えられるのは、あまりいい気分がしないものだ。
ふと視界の端に見慣れた色彩が掠めて、速度を緩めた。
通りを歩く人影。
もう目と鼻の先にあるアカデミーに向かっている、中忍。
看板の影に立ち止まって、瞬時に下した判断を確認する。
支給服と額当ては中忍以上のもの。それらを模範的に身につけ、こんな早朝からアカデミーに向かう中忍は、昼勤の警備要員か教師。肩掛けの大きな鞄からして、おそらく教師の方だろう。
背格好は俺と同じくらい。特に不穏な気配をまとっている訳でもない。
だが。
挙動不審。
やや俯き加減で無造作に歩いている男が、その実、奇妙に蛇行しているのが、上から見ると一目瞭然だ。
曲がり方に規則性はない。
しっかりとした足取りは、身体的不調とも思えない。
―――何なんだ。
前方に大きく飛んで、表情を窺う。
うっすらと見覚えていた、鼻筋に大きな傷のある中忍の貌に付随する情報は何ひとつなかった。
注意深く見守っていると、てくてくと歩きながらルートを変える前に一瞬、何かを探すように視線が彷徨う。
―――落とし物?
それにしては呑気な表情だ。わずか数メートルに迫りながら、覗かれる気配に気づいた様子もない。
大股に一歩、踏み出して。
男の口元が綻ぶ。
さくり。
足音のしない歩みを裏切り、男の足下で脆く砕ける音。
―――あーあ。ああ。そうか。
見つけた秘密はあまりにも馬鹿らしく、脱力したまま踞った。
緩みきった俺の気配をさとってか、不意に頭を上げた男と、まともに視線が合った。
魚屋の屋根にしゃがみこんだ暗部の姿に驚いたらしく、見開かれた双眸。
―――怯えなくても大丈夫。
常に向けられる反応を先読みした言葉は、当然、声にはしない。
朝っぱらから霜柱を踏んで歩く中忍と、それに身構えた暗部と、間抜けはお互いさま。
剣呑な面ごしには、込み上げた苦笑も伝わらないだろうが。
なのに。
呆れたことに、男は照れ臭そうな笑みを浮かべ、そっと会釈してきた。
何げないふうを装い歩きながら、視線を地面に戻す前に、唇が微かに動いて。
見送った広い背中は、今度は真っすぐにアカデミーへと向かった。
―――変な中忍。
霜柱踏みだって。
『お疲れさまです』だって。
遠くなった影を追うように、屋根を蹴った。
昇る陽に朝靄が薄らぎ、いずれ霜柱も溶けて消える。
じわり、と胸の深いところで温もりに溶け、甦ったひりひりとする感覚は、思っていたより悪くない。
案外、人として耐えられないことなぞ、そう多くはないのかも知れない。
幸か不幸か、俺は自覚していたほど後ろ向きではなかったらしく、思い描いていた暗部の成れの果ての姿に修正を加えている。
それが希望ってやつだ。
まるで天啓のように降りてきたあの人は、子供じみた遊びで、俺の知らなかった夢を紡いでくれたから。
いつか、あの人に。
〈了〉
任務外では禁じられていることだが、人気のない夜明け時、夜駆けの後でひどく凍えているから早道をする。人通りがあったとしても、寒冷地仕様のコートと白い面は靄に紛れて、目につくことはないだろう。
はやく報告を済ませて。
温かい湯に頭の先まで浸かり、生臭い汚れを洗い流して。
刀にこびりついた血脂を落とすのは、それからでいい。忍具の手入れをしているうちに、疲労で昂ぶった気も落ち着くはずだから。
そうして全部片付いたら、布団に潜り込む。いつものように浅く薄暗い眠りは、けれど、夢を見るまでは安らかだろう。
夢。
過ぎ去った日々の記憶と、昏く生々しい未来の幻。夜毎に巻き戻される歪んだ時間は、剥き出しの爪先に染む冷気より寒々しい。
そんなものに囚われ壊れるほど上等にはできていなかったが、何か、柔らかいところが次第に固く強ばって、凍りついてゆくように思える。
何も失ってはいない。仲間の命の他には惜しむものなど残されなかった。
命のやりとりをする場で失うものは意外と少ない。ただ、拭い去れない汚れや傷が増えてゆくだけで。
最近では、その痛みさえも鈍く遠く。
いつか、何も感じられなくなるまで凍てついてしまったら、自分はどうなるのだろうかと、他人事のように考える。
やはり些細な衝撃で砕けてしまうのだろうか。
それは、ない。
残念ながら、そんなに幸せな末路を辿れるような生き方はしてこなかった。壊れて忍ではなくなった人々の面影を追いながら、それを羨ましいと思う程度にはひとでなしの、命根性が汚い性分だ。
そんなふうに今も在ることの贖罪のつもりだろうか、躰は反射的に仲間を庇う。失敗するたび傷が増えてゆく。癒えないまま痛みごと凍りつき、夢の連鎖に嵌まりこむ。
「―――あぁ……」
知らず零れた溜め息は嬉しげで、己が嗤っていることに気づいた。
もしも、永の安息が得られるとしたら。
それは胸につかえる氷塊がすべて溶けてしまったときだ。
戒め堪えているよりも後悔するほうが苦しいから、それを許されたなら、きっと自分は耐えられない。
救われた生命の代償も、与えらる使命も責任も、二つ名の誉れさえも膨れ上がって、ひとりで担うには重くなり過ぎたから、後悔に打ちのめされた柔らかい人の心では支えきれないだろう。
ゆめ。
赫い月夜に奪われた夢の代わりに、ささやかな希望を。
いつか、人に戻る日まで。
目抜き通りにほど近く、建物の密集した地帯に至って、チャクラをひそめる。
この辺りには下位の忍も多く棲んでいるから、気配を探られるのは煩わしいし、普通、同業者に頭上を飛び越えられるのは、あまりいい気分がしないものだ。
ふと視界の端に見慣れた色彩が掠めて、速度を緩めた。
通りを歩く人影。
もう目と鼻の先にあるアカデミーに向かっている、中忍。
看板の影に立ち止まって、瞬時に下した判断を確認する。
支給服と額当ては中忍以上のもの。それらを模範的に身につけ、こんな早朝からアカデミーに向かう中忍は、昼勤の警備要員か教師。肩掛けの大きな鞄からして、おそらく教師の方だろう。
背格好は俺と同じくらい。特に不穏な気配をまとっている訳でもない。
だが。
挙動不審。
やや俯き加減で無造作に歩いている男が、その実、奇妙に蛇行しているのが、上から見ると一目瞭然だ。
曲がり方に規則性はない。
しっかりとした足取りは、身体的不調とも思えない。
―――何なんだ。
前方に大きく飛んで、表情を窺う。
うっすらと見覚えていた、鼻筋に大きな傷のある中忍の貌に付随する情報は何ひとつなかった。
注意深く見守っていると、てくてくと歩きながらルートを変える前に一瞬、何かを探すように視線が彷徨う。
―――落とし物?
それにしては呑気な表情だ。わずか数メートルに迫りながら、覗かれる気配に気づいた様子もない。
大股に一歩、踏み出して。
男の口元が綻ぶ。
さくり。
足音のしない歩みを裏切り、男の足下で脆く砕ける音。
―――あーあ。ああ。そうか。
見つけた秘密はあまりにも馬鹿らしく、脱力したまま踞った。
緩みきった俺の気配をさとってか、不意に頭を上げた男と、まともに視線が合った。
魚屋の屋根にしゃがみこんだ暗部の姿に驚いたらしく、見開かれた双眸。
―――怯えなくても大丈夫。
常に向けられる反応を先読みした言葉は、当然、声にはしない。
朝っぱらから霜柱を踏んで歩く中忍と、それに身構えた暗部と、間抜けはお互いさま。
剣呑な面ごしには、込み上げた苦笑も伝わらないだろうが。
なのに。
呆れたことに、男は照れ臭そうな笑みを浮かべ、そっと会釈してきた。
何げないふうを装い歩きながら、視線を地面に戻す前に、唇が微かに動いて。
見送った広い背中は、今度は真っすぐにアカデミーへと向かった。
―――変な中忍。
霜柱踏みだって。
『お疲れさまです』だって。
遠くなった影を追うように、屋根を蹴った。
昇る陽に朝靄が薄らぎ、いずれ霜柱も溶けて消える。
じわり、と胸の深いところで温もりに溶け、甦ったひりひりとする感覚は、思っていたより悪くない。
案外、人として耐えられないことなぞ、そう多くはないのかも知れない。
幸か不幸か、俺は自覚していたほど後ろ向きではなかったらしく、思い描いていた暗部の成れの果ての姿に修正を加えている。
それが希望ってやつだ。
まるで天啓のように降りてきたあの人は、子供じみた遊びで、俺の知らなかった夢を紡いでくれたから。
いつか、あの人に。
〈了〉
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