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寒月を見上げる影は独りぼっちだった。
イルカの家の前に立ち尽くし、カカシはポケットの中の鍵を弄んでいる。
夜も更けてきたというのに、ドアの向こうに人の気配はない。
イルカにしては珍しいことだが、おおよその見当はつく。時期柄、余分な残業を背負込んでしまったか、忘年会の幹事でも押し付けられたのだろう。
どうしたものか。
カカシは迷っていた。
手には最近もらったばかりの合鍵がある。だから、部屋の中で帰りを待ってもいい。互いに不機嫌なまま別れた日以来の無沙汰に、イルカは怒るかも知れないが、きっと許してくれるだろう。
いつものように。
だが、カカシには自分がいつものように、しおらしく許しを乞うことができるとは思えなかった。それどころか、イルカの姿を目にした途端、襲いかかりそうな気がしている。
そんなことは許されないと己を律するだけの理性は残っていた。むしろ、残っていて欲しくなかったと思えるほど、ささやかに。
自嘲の思いにゆるく頭を振って、屋根に飛んだ。建物の反対側に回り、イルカの部屋のベランダに降りる。
腰を下ろして壁に凭れると、コンクリートの冷たさに身震いがした。
カカシは抱えた片膝に顎を乗せ、傾いてゆく白い月を眺めていた。
日付が変わって半刻ばかり。
ふと、遠く待ち人の声が響いて、カカシは素早く視線を走らせた。知らず、口元がほころぶ。
一丁ほど先の小路の角に人影が二つ。
イルカは千鳥足の同僚の肩を支え、抱えるように歩いている。それは面倒見のいいイルカらしい仕方で、邪推を招く素振りなど微塵も見えなかったが、カカシはひどく不快な気分になった。
何か嫌なものが、胸の奥をちりちりと灼いている。
握り締めた掌に、爪が食い込む。
泥酔しているらしい男とイルカの姿が、隣に建つアパートの陰に隠れた。
くすんだ壁に並ぶ、暗い窓のひとつに明かりが灯ってまもなく、イルカの姿は再び路上にあったが、もはやそれはカカシに喜びを与えるものではなかった。
―――どうして。
イルカが他人に触れるのを、許せないと思う。
イルカに触れた男に、殺意を覚える。
激しい感情の波に揺さぶられ、込み上げる吐き気に奥歯を噛み締めた。
背にした壁越しに、水音が響く。
帰宅するなり風呂場に直行したイルカは、酒気を抜こうというのか、長々とシャワーを浴びている。
その間にカカシは何度も帰ろうと考え、また思い直した。
イルカに逢いたい。
けれども、己の押さえ難い衝動によってイルカを傷つけるやも知れず、逢ってはいけないのだとも思える。
かつてない理性と欲望の相克に身動きが取れなくなり、とはいえ、そう簡単に壊れてしまえるほど、やわにできてもいない。
頑是ない子供のように膝を抱えて、カカシは堂々巡りを続けていた。
不意に水音が止まり、イルカの気配が動く。静かな足音が寝室に近づいて来る。
カカシは面を上げ、傍らの窓から室内の様子を窺った。
せめて一目、貌だけでも見て帰ろうと、未練がましく覗いた窓硝子の前で、姿勢が固まる。
イルカは腰にタオルを巻いただけの姿で、濡れた髪を拭っていた。
湯上がりの男が髪を拭いている、ごくありふれた光景だが、カカシの眼に映っているのは、常識的な観念を上回る未知の世界であった。
恋人とはいえ、唇を触れ合わせるのがせいぜいの関係だけに、イルカはカカシに対して甘えもせず、意識的に隙をつくらないようにしている節がある。
カカシの前では、イルカが酒を過ごすことなどないし、同じ部屋で着替えることもなければ、括った髪を下ろすことすら滅多になく、必然、カカシはイルカの肘より先の肌を知らない。
故に。
刃傷やら火傷の痕やら、傷痕など珍しくもない忍の中においても目立つほど、数多の傷が縦横無尽に走る、華奢とは云えないイルカの躰を目の当たりにして、カカシの視覚と脳が受けた刺激は、上忍の肉体に尋常ならざる反応を引き起こした。
右手が窓を開け、後ろ手に閉めた。
驚いて跳び退るイルカの腕を掴み、ベッドに放る。
反動で起き上がろうとする躰にのしかかり、押さえ込む。
その間、一秒半。
まずい、と思った時には既に、見開かれた黒い双眸が間近くあった。
〈続〉
2002/10/08〜2002/10/13
2002/12/08:改稿
イルカの家の前に立ち尽くし、カカシはポケットの中の鍵を弄んでいる。
夜も更けてきたというのに、ドアの向こうに人の気配はない。
イルカにしては珍しいことだが、おおよその見当はつく。時期柄、余分な残業を背負込んでしまったか、忘年会の幹事でも押し付けられたのだろう。
どうしたものか。
カカシは迷っていた。
手には最近もらったばかりの合鍵がある。だから、部屋の中で帰りを待ってもいい。互いに不機嫌なまま別れた日以来の無沙汰に、イルカは怒るかも知れないが、きっと許してくれるだろう。
いつものように。
だが、カカシには自分がいつものように、しおらしく許しを乞うことができるとは思えなかった。それどころか、イルカの姿を目にした途端、襲いかかりそうな気がしている。
そんなことは許されないと己を律するだけの理性は残っていた。むしろ、残っていて欲しくなかったと思えるほど、ささやかに。
自嘲の思いにゆるく頭を振って、屋根に飛んだ。建物の反対側に回り、イルカの部屋のベランダに降りる。
腰を下ろして壁に凭れると、コンクリートの冷たさに身震いがした。
カカシは抱えた片膝に顎を乗せ、傾いてゆく白い月を眺めていた。
日付が変わって半刻ばかり。
ふと、遠く待ち人の声が響いて、カカシは素早く視線を走らせた。知らず、口元がほころぶ。
一丁ほど先の小路の角に人影が二つ。
イルカは千鳥足の同僚の肩を支え、抱えるように歩いている。それは面倒見のいいイルカらしい仕方で、邪推を招く素振りなど微塵も見えなかったが、カカシはひどく不快な気分になった。
何か嫌なものが、胸の奥をちりちりと灼いている。
握り締めた掌に、爪が食い込む。
泥酔しているらしい男とイルカの姿が、隣に建つアパートの陰に隠れた。
くすんだ壁に並ぶ、暗い窓のひとつに明かりが灯ってまもなく、イルカの姿は再び路上にあったが、もはやそれはカカシに喜びを与えるものではなかった。
―――どうして。
イルカが他人に触れるのを、許せないと思う。
イルカに触れた男に、殺意を覚える。
激しい感情の波に揺さぶられ、込み上げる吐き気に奥歯を噛み締めた。
背にした壁越しに、水音が響く。
帰宅するなり風呂場に直行したイルカは、酒気を抜こうというのか、長々とシャワーを浴びている。
その間にカカシは何度も帰ろうと考え、また思い直した。
イルカに逢いたい。
けれども、己の押さえ難い衝動によってイルカを傷つけるやも知れず、逢ってはいけないのだとも思える。
かつてない理性と欲望の相克に身動きが取れなくなり、とはいえ、そう簡単に壊れてしまえるほど、やわにできてもいない。
頑是ない子供のように膝を抱えて、カカシは堂々巡りを続けていた。
不意に水音が止まり、イルカの気配が動く。静かな足音が寝室に近づいて来る。
カカシは面を上げ、傍らの窓から室内の様子を窺った。
せめて一目、貌だけでも見て帰ろうと、未練がましく覗いた窓硝子の前で、姿勢が固まる。
イルカは腰にタオルを巻いただけの姿で、濡れた髪を拭っていた。
湯上がりの男が髪を拭いている、ごくありふれた光景だが、カカシの眼に映っているのは、常識的な観念を上回る未知の世界であった。
恋人とはいえ、唇を触れ合わせるのがせいぜいの関係だけに、イルカはカカシに対して甘えもせず、意識的に隙をつくらないようにしている節がある。
カカシの前では、イルカが酒を過ごすことなどないし、同じ部屋で着替えることもなければ、括った髪を下ろすことすら滅多になく、必然、カカシはイルカの肘より先の肌を知らない。
故に。
刃傷やら火傷の痕やら、傷痕など珍しくもない忍の中においても目立つほど、数多の傷が縦横無尽に走る、華奢とは云えないイルカの躰を目の当たりにして、カカシの視覚と脳が受けた刺激は、上忍の肉体に尋常ならざる反応を引き起こした。
右手が窓を開け、後ろ手に閉めた。
驚いて跳び退るイルカの腕を掴み、ベッドに放る。
反動で起き上がろうとする躰にのしかかり、押さえ込む。
その間、一秒半。
まずい、と思った時には既に、見開かれた黒い双眸が間近くあった。
〈続〉
2002/10/08〜2002/10/13
2002/12/08:改稿
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