+ + + + + + + + + +
〜2〜
何が起こったのか、イルカにはわからなかった。
鋭く風を切る音に気づいた時には、右頬を叩きつけられた衝撃で、躰が半回転していた。
―――殴られた?
弾き飛ばされそうになるのを踏みとどまり、振り返ったイルカの前に、ひとりの暗部が立ちはだかっていた。
雲間から顔を出した上弦の月が、戌を模った白い面と、それを縁取る鮮やかな銀髪とを照らしだす。
「ね、アンタその額当ては本物? 死にたいの?」
気軽な口調とは裏腹に、暗部面から吹きつけられた明確な殺気が、イルカの身を竦ませた。
鋭く研ぎ上げられた刃が、薄皮一枚隔て急所にぴたりと添う恐怖。全身に。周囲の空間は張りつめ、目に見えない硬質な型に填め込まれたような錯覚を覚えた。
思考さえ凍らせる、冷たい殺意が皮下に染みこんでゆく。
「……っ…」
イルカが気力を振り絞り後じさったのと同時に、戌面の男の躰が揺らぎ、ゆっくりと地に崩折れた。
空気が弛む。
「おい、燃料切れか」
イルカの正気を呼び戻した声の主は、倒れた男の背後にいた暗部のひとりだった。小柄な体躯と高い声音は女のようでもあるが、酉の面と夜陰に惑わされ判然としない。
「んー、そうみたい」
面倒臭げに答えた戌面の暗部は、イルカの足元に座り込んでいた。漲っていた殺気はふつりと絶え、四肢は力なく地面に放り出されている。
そのありさまを目にし、彼が敵の上忍を屠った一撃には、活動限界を越えるチャクラが注ぎ込まれていたのだと察して、イルカは背筋に寒気を覚えた。
乱戦の中で、ぎりぎりの間合いとチャクラの配分を読む。きわどい見切りを誤れば自ら死を招く。
真っ当な忍の斗い方ではない。忍がそういう攻撃を仕掛けるのは、自身が犠牲にならねば任務を全うできない状況に陥ったときだけだ。
足元に踞る暗部は、仲間に軽口を叩いている。
木ノ葉の陰りにひそみ、必殺の任を担う部隊。こともなげに命を賭して、敵を斃した技には余裕さえ感じられた男。彼が見せた隙さえも、おそらくは計算の内だったのだろう。
暗部とはそういうものかと今更に、目の当たりにした圧倒的な力を思う。
ふと、戌面が顔を上げ、イルカを見た。
面にくりぬかれた二つの穴は黒く虚ろで、その下の生身を素通しに、どこか深い闇へと続いている。
「所属は?」
問われて、イルカは居住まいを正した。
「アカデミーの教師です」
「は。センセイねえ……里の忍が暗部のお仕事に手を出しちゃダメでしょ」
咎めるというより、呆れたと云わんばかりの辛辣さに、イルカは俯いた。返す言葉などない。
任務中の中忍が勝手に、一切が機密扱いである暗部の任務に関わり、挙句の危機を救われるなど、この場で処分されても仕方がないような不始末だった。
「……申し訳ありません」
殴られた頬が痛む。
口中に溢れる鉄臭さに吐き気を覚えた。
「お前」
驚くほど間近で呼びかけられ、イルカは垂れていた頭を跳ね上げる。
すぐ側の樹影にまぎれて酉面の暗部が立っていた。その鉤爪のついた指先が、座り込んでいる男を指し示す。
「そいつを里まで持ってこい」
まるで買い物袋でも預ける口ぶりで、云った。
暗部が作戦中に他の部隊の者と関わるのは珍しいが、皆無ではない。
たとえば負傷者の回収。大規模な戦闘においては所属を云々している余裕はなく、生存の見込みのある者は片端から拾い上げてゆく。
そういった任務ならばイルカにも経験がある。敗走の最中でもない限り、さほど困難ではないと分かっていたので、迷うことなく頷いた。
「はい、必ず」
「はあ? いーよ、みっともない。放っておいてくれ」
イルカの返事を打ち消すように足元の男が云い放ち、酉面の暗部は肩を竦めた。
「後始末の奴等はどうする気だ」
戌面の下で、舌打ちの音。
「……俺は直帰するからね」
ぼそりと呟いた男へ、酉面はやれやれとばかりに頭を振る。そのまま踵を返し、樹に凭れていた仲間を軽々と担ぎ上げるなり、他の者とともに森の闇へと姿を消した。
「失礼します」
イルカは会釈し、戌面の男に肩を貸して立ち上がらせたが、すぐにそれでは具合が悪いことに気がついた。
かろうじて立った男の脚は萎え、一歩を踏み出すこともおぼつかない。その躰を支えることはできても、長距離を迅速に移動するのは困難だろう。
かといって、負傷者を荷物のように担ぐのもためらわれ、イルカは男の前で腰を屈めた。
背負った男の、だらりと垂れた両腕を肩に回させ、傍らの大樹の枝に跳ぶ。
国境に点々と並ぶ物見櫓の光は思っていたより近く、その先には小さく街の灯火が見えた。
用心深く月明かりを避け、森の木々を跳び移るイルカの耳元で、男が云う。
「歩いて行ってもいいのに」
「そういう訳にもいかないでしょう」
事情がどうあれ、中忍に背負われる暗部の姿など、人目を憚る醜態に違いない。実際、この男にしても先刻、イルカの助力を嫌がっていたではないか。
「真面目だねぇ」
揶揄われているのか感心されているのか、男の声は淡々として感情が汲み取れない質のものだった。
互いに継ぐ言葉もないまま、密やかに暗闇を行く。
夜の闇にまぎれて国境を抜けるのは容易く、難関だと思われた里境も、男の指示した抜け道に人の気配はなかった。
「こんな簡単に……」
木立の間に降り立ったイルカが呟くと、背負った男が突然、風鳴りに似た口笛を吹いた。
一拍の時もおかず、イルカの鼻先を一陣の風が過り、傍らの古木の枝にとまった。
人間の子供ほどもある梟だ。大きさだけではなく、通れ、と人語を話すのも尋常ではない。
たじろぐイルカを尻目に、年経た忍鳥はくるりと頭を回し、羽音もなく飛び去った。
「アレが見張り」
背中から、億劫そうに放られた一言。
「あ。すみません」
イルカが浅慮を恥じて頭を下げると、男は笑った。
「別に謝るトコじゃないでしょ。面白いね、アンタ」
「はあ」
理由もわからず笑われるのは不愉快だったが、問えば薮蛇になりそうな気もして、イルカは口を噤んだ。
数歩、進んで。
「あの、どちらに行けば」
行き先を訊ねると、耳障りな含み笑いが途切れた。わずかな間をおいて、ふと思いついたように男が云う。
「あんた家族はいるの」
「いいえ、独り者ですが」
「だったら、動けるようになるまで泊めてくれない?」
思いもよらぬ申し出に、イルカは絶句した。
―――なんで暗部が、俺の家に。
困惑して俯いたイルカの目の前に、力無く下がったままの男の両腕があった。
―――そうか。
男は直帰すると云っていた。
忍医を頼むほどの深手はなく、チャクラ切れで動けない。結果だけ見れば失態ともいえる姿を周囲に曝したくないという気持ちなら、イルカにもわかる。それが許されるかどうかは別として。
もしかしたら、男も一人暮らしなのかも知れない。身動きもままならない状態では、傷の手当などできはしないだろう。
どちらにしろ、自分を庇って倒れた者に宿を乞われ、断れるほど恩知らずでもなかった。
「むさくるしい所ですけれど、それで構わなければ」
「寝る場所だけあればいい」
即答。
「わかりました」
なりゆきに納得できずとも、受け入れるしかないと。
[続]
2002/09/17〜2004/08/06
何が起こったのか、イルカにはわからなかった。
鋭く風を切る音に気づいた時には、右頬を叩きつけられた衝撃で、躰が半回転していた。
―――殴られた?
弾き飛ばされそうになるのを踏みとどまり、振り返ったイルカの前に、ひとりの暗部が立ちはだかっていた。
雲間から顔を出した上弦の月が、戌を模った白い面と、それを縁取る鮮やかな銀髪とを照らしだす。
「ね、アンタその額当ては本物? 死にたいの?」
気軽な口調とは裏腹に、暗部面から吹きつけられた明確な殺気が、イルカの身を竦ませた。
鋭く研ぎ上げられた刃が、薄皮一枚隔て急所にぴたりと添う恐怖。全身に。周囲の空間は張りつめ、目に見えない硬質な型に填め込まれたような錯覚を覚えた。
思考さえ凍らせる、冷たい殺意が皮下に染みこんでゆく。
「……っ…」
イルカが気力を振り絞り後じさったのと同時に、戌面の男の躰が揺らぎ、ゆっくりと地に崩折れた。
空気が弛む。
「おい、燃料切れか」
イルカの正気を呼び戻した声の主は、倒れた男の背後にいた暗部のひとりだった。小柄な体躯と高い声音は女のようでもあるが、酉の面と夜陰に惑わされ判然としない。
「んー、そうみたい」
面倒臭げに答えた戌面の暗部は、イルカの足元に座り込んでいた。漲っていた殺気はふつりと絶え、四肢は力なく地面に放り出されている。
そのありさまを目にし、彼が敵の上忍を屠った一撃には、活動限界を越えるチャクラが注ぎ込まれていたのだと察して、イルカは背筋に寒気を覚えた。
乱戦の中で、ぎりぎりの間合いとチャクラの配分を読む。きわどい見切りを誤れば自ら死を招く。
真っ当な忍の斗い方ではない。忍がそういう攻撃を仕掛けるのは、自身が犠牲にならねば任務を全うできない状況に陥ったときだけだ。
足元に踞る暗部は、仲間に軽口を叩いている。
木ノ葉の陰りにひそみ、必殺の任を担う部隊。こともなげに命を賭して、敵を斃した技には余裕さえ感じられた男。彼が見せた隙さえも、おそらくは計算の内だったのだろう。
暗部とはそういうものかと今更に、目の当たりにした圧倒的な力を思う。
ふと、戌面が顔を上げ、イルカを見た。
面にくりぬかれた二つの穴は黒く虚ろで、その下の生身を素通しに、どこか深い闇へと続いている。
「所属は?」
問われて、イルカは居住まいを正した。
「アカデミーの教師です」
「は。センセイねえ……里の忍が暗部のお仕事に手を出しちゃダメでしょ」
咎めるというより、呆れたと云わんばかりの辛辣さに、イルカは俯いた。返す言葉などない。
任務中の中忍が勝手に、一切が機密扱いである暗部の任務に関わり、挙句の危機を救われるなど、この場で処分されても仕方がないような不始末だった。
「……申し訳ありません」
殴られた頬が痛む。
口中に溢れる鉄臭さに吐き気を覚えた。
「お前」
驚くほど間近で呼びかけられ、イルカは垂れていた頭を跳ね上げる。
すぐ側の樹影にまぎれて酉面の暗部が立っていた。その鉤爪のついた指先が、座り込んでいる男を指し示す。
「そいつを里まで持ってこい」
まるで買い物袋でも預ける口ぶりで、云った。
暗部が作戦中に他の部隊の者と関わるのは珍しいが、皆無ではない。
たとえば負傷者の回収。大規模な戦闘においては所属を云々している余裕はなく、生存の見込みのある者は片端から拾い上げてゆく。
そういった任務ならばイルカにも経験がある。敗走の最中でもない限り、さほど困難ではないと分かっていたので、迷うことなく頷いた。
「はい、必ず」
「はあ? いーよ、みっともない。放っておいてくれ」
イルカの返事を打ち消すように足元の男が云い放ち、酉面の暗部は肩を竦めた。
「後始末の奴等はどうする気だ」
戌面の下で、舌打ちの音。
「……俺は直帰するからね」
ぼそりと呟いた男へ、酉面はやれやれとばかりに頭を振る。そのまま踵を返し、樹に凭れていた仲間を軽々と担ぎ上げるなり、他の者とともに森の闇へと姿を消した。
「失礼します」
イルカは会釈し、戌面の男に肩を貸して立ち上がらせたが、すぐにそれでは具合が悪いことに気がついた。
かろうじて立った男の脚は萎え、一歩を踏み出すこともおぼつかない。その躰を支えることはできても、長距離を迅速に移動するのは困難だろう。
かといって、負傷者を荷物のように担ぐのもためらわれ、イルカは男の前で腰を屈めた。
背負った男の、だらりと垂れた両腕を肩に回させ、傍らの大樹の枝に跳ぶ。
国境に点々と並ぶ物見櫓の光は思っていたより近く、その先には小さく街の灯火が見えた。
用心深く月明かりを避け、森の木々を跳び移るイルカの耳元で、男が云う。
「歩いて行ってもいいのに」
「そういう訳にもいかないでしょう」
事情がどうあれ、中忍に背負われる暗部の姿など、人目を憚る醜態に違いない。実際、この男にしても先刻、イルカの助力を嫌がっていたではないか。
「真面目だねぇ」
揶揄われているのか感心されているのか、男の声は淡々として感情が汲み取れない質のものだった。
互いに継ぐ言葉もないまま、密やかに暗闇を行く。
夜の闇にまぎれて国境を抜けるのは容易く、難関だと思われた里境も、男の指示した抜け道に人の気配はなかった。
「こんな簡単に……」
木立の間に降り立ったイルカが呟くと、背負った男が突然、風鳴りに似た口笛を吹いた。
一拍の時もおかず、イルカの鼻先を一陣の風が過り、傍らの古木の枝にとまった。
人間の子供ほどもある梟だ。大きさだけではなく、通れ、と人語を話すのも尋常ではない。
たじろぐイルカを尻目に、年経た忍鳥はくるりと頭を回し、羽音もなく飛び去った。
「アレが見張り」
背中から、億劫そうに放られた一言。
「あ。すみません」
イルカが浅慮を恥じて頭を下げると、男は笑った。
「別に謝るトコじゃないでしょ。面白いね、アンタ」
「はあ」
理由もわからず笑われるのは不愉快だったが、問えば薮蛇になりそうな気もして、イルカは口を噤んだ。
数歩、進んで。
「あの、どちらに行けば」
行き先を訊ねると、耳障りな含み笑いが途切れた。わずかな間をおいて、ふと思いついたように男が云う。
「あんた家族はいるの」
「いいえ、独り者ですが」
「だったら、動けるようになるまで泊めてくれない?」
思いもよらぬ申し出に、イルカは絶句した。
―――なんで暗部が、俺の家に。
困惑して俯いたイルカの目の前に、力無く下がったままの男の両腕があった。
―――そうか。
男は直帰すると云っていた。
忍医を頼むほどの深手はなく、チャクラ切れで動けない。結果だけ見れば失態ともいえる姿を周囲に曝したくないという気持ちなら、イルカにもわかる。それが許されるかどうかは別として。
もしかしたら、男も一人暮らしなのかも知れない。身動きもままならない状態では、傷の手当などできはしないだろう。
どちらにしろ、自分を庇って倒れた者に宿を乞われ、断れるほど恩知らずでもなかった。
「むさくるしい所ですけれど、それで構わなければ」
「寝る場所だけあればいい」
即答。
「わかりました」
なりゆきに納得できずとも、受け入れるしかないと。
[続]
2002/09/17〜2004/08/06
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